ダメな職場


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「悪魔のような笑顔で経典を読み上げる高校教師」の写真[モデル:大川竜弥]

少し前から、これはダメだろ!といえるような

神戸で起きた教師間のいじめ問題がニュースになっている。

事件の内容を知るたびに、その学校のダメさ加減、

教師のダメっぷりが目について仕方がなかった。

事件の概要は、1人の教師を4人でいじめたという内容だが、
別に驚きはしなかった。

今、世の中でこれほど職場でのパワハラを始めとして、

あらゆるハラスメントが問題になっているなかで、

学校という職場だけが、例外なんてありえないと思っていたからだ。

どんな職場だろうが、所詮は突き詰めれば人の集まりだと思う。

人がいる限り、必ずそこには喜怒哀楽があるし妬み、嫉み、僻み
といったドロドロした感情が渦巻いている。

 

いくら「そんなのダメだ!」と叫んだところで、それが現実だ。

人間、部屋でひとり閉じこもっていたって、

そういう感情からは逃れることはできない。

それが、多人数が集まれば、互いの相互作用で良きにしろ悪きにしろ、

何らかの出来事が起こってもおかしくないと思う。

あとは、実際にそこに働く人間と職場の、それぞれが持つ、

それぞれのモラルや常識、価値観と、それぞれの社会通念に対する

捉え方の問題が、原因として形に表れているに過ぎないと考えている。

今回の問題を見ても、学校側の対応のお粗末さと、

加害者側の教師連中の往生際の悪さが、本当に嫌悪感をもって目についた。

「え?本当に教師の言い分?子供の言い分じゃないの?」と
思うくらいに、稚拙で幼い言い訳にもならないダメな言い訳だった。

学校や現場の教師がこの程度じゃ、全国でいじめの問題が起こっても、

そりゃ解決も出来ないよと、合点がいった。

今現在、いじめの問題を抱えている学校や、

いじめについて訴えられている学校を調べれば、

おそらくは教師間同士のいじめ問題もあるはずだ。

なぜなら、子供は大人の行動を真似るからだ。

教師同士でいじめあうような、いじめを容認するような学校なら、
いじめられた子供や、親が泣いて訴えても、いじめられた子供が
自らの死をもって抗議しても、彼らには絶対に響かない。

何故なら、それを調べたり精査したり、調査する彼ら自身が、
実は、いじめっ子その者であり、いじめを肯定し、
いじめる事が悪いことだと微塵も思っていないのだから。

もし、「いや、いじめは良くない!認めてなんていない」と
思っているのなら、いじめの何たるかを理解していないだけだ。

その無理解さは、彼ら加害者教師達の言い訳をみても、

良く分かる通り能力や適性の有無に関する問題だ。

彼らには、教師としての能力も適性もないのだ。

 

では逆に、もし、いじめを知っていて、黙認し、放置し、

問題が起こっても知らぬ存ぜぬで事態を隠蔽するならば、

それは人間としての品性やモラルといった問題になる。

これもまた、学校や彼らの言い分を聞く限り、品性やモラルにも
欠けていると断言せざるを得ない。

 

どちらにしても、この学校も教師も、自分たちが社会から課せられ、
期待されている職業としての責務を忘れて、

単なる労働者になっているんだろうなと私は思った。

加害者教師たちが、有給休暇で学校に来ていない事も問題になった。

これは私見だが、元々は社会が教師たる職業に対して、
「よもや教師がこんな問題を起こすわけがないだろう」という
期待と性善説に基づいて、問題を起こした教師に対する制度を
あえて作らなかった側面だってあるはずだ。

それは、教師という人間がアンタッチャブルな存在だからではなく、
教師という職業に対して、社会が期待したという結果に過ぎない。

それを、何を勘違いしたのか、処分されないのを良い事に組合運動に血道をあげて、
本来業務をおざなりしたりする一部の教員がいる事は、ずっと言われてきた。

処罰や処分がされない事を良い事に、やりたい放題の教師の問題は、

知っている人はかなり昔から知っていた。

 

そういう教員は、自分が気に入らない事があれば、

常に「学校の為、生徒児童の為」という言葉を使い、良いように利用してきた。

そして組合の後ろ盾を使って、意ににそぐわない上長を追い詰めたり、
職場を混乱させたりする話は、昔からずっと言われてきた。

恐らく、今回の事件も、そういう身内に対してぬるく甘い体質の教育界と、

一部のダメ教師たちが作り上げてきた空気が、根本原因のような気がしてならない。

 

きっと、被害者教師は、教員としては才能や適性に恵まれていたのだろうと思う。

いじめた加害者教師達は、そんな後輩が煙たくて仕方なく、
自分達のダメさ加減が目立ち、嫉妬心が抑えられなかったのだろう。

加害者教師達にとって、学校や生徒なんて言うのは、
自分たちのプライドを満たすためのアクセサリーの一つなのだろう。

だからこそ、自分たちのメッキを剥がし、存在を脅かすような

実力ある被害者教師の存在が許せなかったのかなと、私は思っている。

先輩という立場を利用し、事あるごとに、被害者教師にダメ出しをし、
理由をつけては乱暴を働き、「ポンコツ」を呼んでは
尊厳を傷つけ、「お前はダメなんだ」と言い続けることで、
自分たちの体面を保ってきたことは容易に想像できる。

学校側にしても、組織運営を優先し、加害者教師たちを糾弾して
組織運営に支障をきたしたくなかったのだろう。

それならば、いじめを容認し、黙認することで

加害者教師たちに、組織運営に対する協力を優先させたのだろう。

ようは、みんなの為、学校の為という大義名分のために、
1人の教師を寄ってたかってスケープゴートしたにすぎない。

彼らには、彼らなりの正義感や覚悟に基づいて、いじめていたんだろう。

しかし、そんなものは社会が容認するわけないから、

事件になったのであって、「いじめたつもりはなかった、それは違う」という。

それなら、自分達がやってきたことの正当性を表に出てきて徹底的に主張したらいい。

それが出来ないのは、単に自分の身勝手さで行動してきたに過ぎず、

言い訳出来ないのを自分たちが一番わかっているからに過ぎない。

だから、「間違っていました、すみません」の代わりに、くだらない言い訳に終始し、

前校長に限っては逃げるように病気療養で姿を見せない。

本当に、卑怯、卑劣極まりない。

だが、世間では、こんなことは良くあることだ。
それが、パワハラやセクハラなどのニュースを見れば明らかだ。

例えば、世間から高いモラルとやりがいを求められる職場があったとして、

そこに理想と希望をもって就職した人間がいるとする。

だが、実際の職場は、世間のイメージと全く真逆の
ダメな環境だったことが分かった。

そこで働いている人間も、それがダメな事、悪い事と思っていても、

「これが現実だ」と半ば諦めて仕事をしている。

1人、新入社員の人間だけが、理想や希望を実現しようと奮闘しても、
職場の空気や価値観に馴染めず、既に希望を失った先輩社員の反感を買う。

結果、いじめられて干されて、最後は自分もその職場の空気や価値観を
受け入れてダメになり、腐っていくか、精神を病んで辞めるかしかない。

それに負けずに、戦い続けるなんて、容易な事じゃない。
そんなのは、ドラマの中だけの話だ。

難しいからこそ、そういった事例は美談になるし、ドラマになる。

件の学校もきっとこんな風な腐ったダメな職場だったのだろう。

これは、暴論の類になってしまうが、

私はもう、教員採用試験と実際の教員採用に関しては、制限を設けるべきだと思う。

制限の内容は、教員採用試験を受けるには、一定期間の職歴が無ければならない。

採用に関しても、一定の職歴と合わせて、教員の試用期間を設け、

その経験を以って、そこで問題無しと判断されなければ、
本採用はしないとして欲しい。

教員免状も、更新制度にして、適性に問題がある教師は、
免許の更新を認めないようにするべきだと思っている。

さらに言えば、教師として勤めている間に、教え子が問題を起こしたら、

その生徒を教えた教師も、その時点で責任を取るべきだと思っている。

逆に、教え子が良いことをしたり、社会に貢献するような事があれば、

それは加点事由として、教師に給与や役職等で還元すればよい。

人を育て、教育するという事が教師の職務なら、

育てた人間がどうなったかについてまで、結果責任を追及するべきだと考える。

基本的に、いかなる理由を付けようが、結果に対して
責任を問われない仕事は、ダメになっていくしかないのだから。

最後に、この事件がきちんと裁かれることと、
被害にあった教師の心の傷が癒され、一日も早く現場へ復帰出来る事を
心の底から願っている。


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管理人 琴峰 一歩      プロフィール

Revtank Outtakes

現在、アラフォーの年齢になった。

10代は、いじめや人間関係に悩み、
苦しみ続ける孤独な毎日だった。

20代では、不安定な経済力や仕事で苦労し、不安な毎日を過ごした。

30代に入り、無職も経験した。
本当に人生を変えたかった。

人生を変える為に、やりたい事、 挑戦したい事は沢山あった。

ただ、それに反比例して、
どうしようもなくお金が無かった。

だから、お金を使わずにできる事。

自分自身の考え方を変えた。

まず、悩み続けた不安定な経済力、雇用関係が変わった。

次に、苦手だった人付き合いが
嘘のように活発になった。

長い間、変わらなかった現実が
突然ガラリと変わった。

今は、新しい人生の夢に向かい、
挑んでいる。

そして、それは少しづつ実現中だ。

 

 

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