「罰ゲーム」のような人間関係


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かつて、私は、いじめられた経験から人間関係に苦しみ、
どうしたら周囲との関係が良くなるだろうかと悩んだ。

 

 

ありとあらゆる方法論、性格の改善や自己啓発など、

10代から20代中頃まで色々と模索していた時期があった。

 

 

そして一つの結論として、良い人間関係を手に入れるには
相手を立てて自分を一段下に置こうと考えた。

 

その目的を達成するために、手段として考えたのは、
徹底して「いい人」を演じ、実行する事だった。

 

今から振り返れば、他にも方法はあっただろうと思うが、
自己評価が低かった当時は、周囲と対等になろうとは思わなかった。

 

 

まじめに考えた結果、当時はそれが正解だと思っていた。

 

 

なぜなら、円滑な人間関係を構築したければ、周囲に好かれる事、
逆に我が儘や自分勝手などで、嫌がられたら終わりと思っていた。

 

「いい人」でいれば、おのずと周囲との関係も良くなり、
結果として、自分が孤独から逃れるための唯一の方法だと、
強迫観念にも似た思い込みからくる行動だった。

 

 

周囲に好かれるためには、自分の立ち位置や価値を下げる事など、
精神的になんの抵抗もなかった。

 

 

それ故に、他人と関わる時は、常に自分がどう思うかよりも、
相手がどう思うかという一点に拘り続けた。

 

周囲との会話も、相手の喜ぶ答えや返事、行動を常に心がけた。

 

そういう努力の甲斐があって、確かに周りに人は増えた。
「孤独は嫌だ」という目的は果たせた。

 

 

ある日「琴峰っていい人だね」と、そう言ってくれる人が現れた。

 

 

その時の気持ちは、表現できないほど嬉しかった。

 

 

その日以来、「いい人」でいる事に、ますます拍車がかかった。

 

でも、それは全く楽しくない、新たな苦痛の始まりでしかなかった。

 

 

「いい人」でいるという事は、極端な話で言えば、
周囲に対して常に自分が無いのだ。

 

 

誰かに何かを頼まれたり、誘われたりしても、

本当は断りたいのに、「嫌だ」と断ることが出来なかった。
本当は出来ないのに、「やってみるよ」と言ってしまった。

 

相手の希望や願いを断ることや、相手の望む答えを言わないことで、
自分が嫌われて、再び孤独を味わうことが怖かったからだ。

 

 

そのうちに、「いい人」でいることが苦痛でたまらなくなり、
罰ゲームのような感覚になってしまった。

 

 

そして、その苦痛に耐えきれなくなってきた時、
抑えていたはずの自分の気持ちが、口から勝手に出るようになった。

 

そんな日は、本音を「言ってしまった」という変な罪悪感で、
自分の心が苦痛と後悔にさいなまれるようになった。

 

 

本音が抑えられないときは、自分が嫌になり、
心の中で相手への言い訳にまみれる日々が増えていった。

 

 

周囲と関わるたびに、一挙手一投足、相手の態度や言動に
一喜一憂し、そして日々消耗し、自分を失っていった。

 

そして、いつか周囲が、ある日、突然、自分に対する態度や、
気持ちを変えて、手のひら返しをするんじゃないかと、
不安に悩まされるようになっていった。

 

私は、手段としてのいい人を演じるうちに、心の中がいつの間にか
恐怖と疑心暗鬼で一杯になっていった。

 

 

一日を終えて家に帰り、一人床に就くと、その日の出来事や
周りとの会話を思い出し、悶えるような後悔が常に押し寄せた。

 

 

「あ~!なんであの時に、あんな返事をしたんだろうか」

「あの時の態度は、きっと相手に誤解を与えたかもしれないな」

 

自分の言葉や相手の言葉を思い出しては自己嫌悪に陥り、
酷い時には、わざわざ相手に電話をしたり、
弁解のメールをしたりもした。

 

 

とにかく、相手からの「別に気にしていないよ」という
一言を引き出さないと、不安に駆られてどうしようもなかった。

 

 

気づいたときには、自分の周りに人は大勢いるのに、
自分の本音を話せる人間は誰一人としていない世界が存在していた。

 

 

一人じゃないのに、心が一人ぼっちという状態だった。

 

 

最後は、あれほど嫌だった「孤独」や「孤立」を心の中では
望むようになり、人と関わるのが苦痛で耐えられなくなっていた。

 

 

 

私は「いい人」を演じる、終りのない罰ゲームな日々に疲弊し、
さりとて「いい人」を辞める勇気もなくフェードアウトを選んだ。

 

 

 

それは、いじめられて孤独を味わった時と違い、
今度は自分の意志で孤独を選んだ時の解放感は、今でも忘れない。

 

孤独から逃れるために努力した結果が、
再び自分が孤独という環境を選ぶ羽目になったというのは、
本当に皮肉だった。

 

そして、少なくない時間を使い、努力し、散々疲弊して得た答えは、
結局は人間関係というのは、出来る限り対等であるべきだと思った。

 

どちらかが、気に入られたり迎合されるために負担を負うことは
決して健全な人間関係を構築することは出来ない。

 

 

自分という自我を出すことで、もしかしたら「嫌われるかも」
というリスクを受け入れることだ。

 

 

必ず、その「自我」を個性として受けれれてくれる人たちが現れ、

対等な人間関係を構築できるようになる。

 

 

いつだったか、テレビか本で言われていた「嫌われる勇気」だ。

 

逆に、嫌われるリスクを避ける為の「いい人」というのは、
実に色々な意味があることが、今はよく理解できる。

 

 

「どうでもいい人」「いてもいなくてもいい人」「都合のいい人」

 

 

それが分かった今、私は比較的自由に、それもかなり我が儘に
人間関係を楽しめるようになった。

 

もちろん、そうなるには、もう少し時間はかかったが、
少なくとも、苦しんだ経験というのは、今では役に立っている。

 

 

今、現実に私の周囲の人間に、かつて人間関係に苦しんで
悩んだ話をしても、たぶん信用されないだろう。

 

 

現に、職場の同僚達や上司などにも、

「なんか琴峰君は、いつも自由でいいよね」とか言われたり、

「いつも周りに人がいるよね」「人と関わるのが好きでしょ?」
とか言われたりする。

 

「いや、昔は人間関係に苦しんで、孤独だったんですよ」
と言ったことはあるが、嘘つき呼ばわりされてしまった。

 

それほど今では、好き勝手に、自由に人との付き合いを
楽しんでいる自分がいる。

 

 

でも時々、・・いや、もう少し多い頻度で、やっぱり人づきあいが
嫌になったり、疲れてしまう自分もいるのも事実だし、
楽しいはずなのに、孤独を感じてしまう時もある。

 

 

そして、相変わらずメンタル面では、いじめられて悩んでいた自分、

ずっと孤独に悩んだ自分が今でも心の中に居座っている。

 

 

そして、それは時々ひょっこりと顔をのぞかせたりもする。
決まって、みんなでワイワイと楽しく過ごしている時だ。

 

 

そんな時は、いつも思う。

「人はそうそう変われないな」と。

 

だが、悩んでいた時と、今とで、内面が変わらない自分だからこそ、
現在の環境を手に入れられたのも、また事実である。

 


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現在、アラフォーの年齢になった。

10代は、いじめや人間関係に悩み、
苦しみ続ける孤独な毎日だった。

20代では、不安定な経済力や仕事で苦労し、不安な毎日を過ごした。

30代に入り、無職も経験した。
本当に人生を変えたかった。

人生を変える為に、やりたい事、 挑戦したい事は沢山あった。

ただ、それに反比例して、
どうしようもなくお金が無かった。

だから、お金を使わずにできる事。

自分自身の考え方を変えた。

まず、悩み続けた不安定な経済力、雇用関係が変わった。

次に、苦手だった人付き合いが
嘘のように活発になった。

長い間、変わらなかった現実が
突然ガラリと変わった。

今は、新しい人生の夢に向かい、
挑んでいる。

そして、それは少しづつ実現中だ。

 

 

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