「常識」という名前の魔物


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4.「ムカ着火ファイアー」な男性

 

時々「常識」という言葉が異常に好きな人間と関わるときがある。

そして、人間関係が面倒だと感じるときは、大体において
この「常識」を振り回して、こちらの行動に意見をしてきたり、
縛りをかけてくる連中と関わった時だ。

その「常識」という言葉が好きな人間は、私の周囲では
かなりの確率で自分勝手な人間だった。

「我こそは、誰よりも常識的だ」と思い込んでいる
連中ばかりだった。

彼ら、「常識好き」の会話には、ある共通点がある。

それは、会話の枕詞に「常識」をもってくるのだ。


「常識としてさ~」

「常識で考えたら普通はさ~」

「それって常識ないじゃない?本来なら~」等々。


彼らは、会話の中に「常識」というキーワードを入れることで、
相手に対して、暗に「非常識な奴」と批判するのである。


ここが、「常識」という言葉がもつ怖い一面だ。

 

人は、誰しも非常識のレッテルは貼られたくない。

常識的でありたいという願望が、無意識のうちに働いている。
「常識」とは一面においては「マナー」ともいえるだろう。


故に、普段の行動様式や会話にも、それぞれの立場で、
相手に対して、「マナー」という一面からみても、有形無形の

「常識」という縛りがかかっている。


そして、誰しもが「常識」を大切に考えるが故に、
自分の常識が、常に不完全であることも自覚しているのである。

 

つまり、「もしかしたら、どこか間違っているかも」という自省だ。

 

世間一般でいうクレーマーなどは、まさにこの点を突いてきて、
「常識」というキーワードで自分の要求を通そうとするのだ。

 

通常、サービス業や客商売、業務におけるクライアントなどから、
改善提案やクレームを付けられることは、往々にしてある。

しかし、大体は話し合えるし、お互いにとってより良い着地点を
見つけることが出来る。

しかし、クレーマーと言われる人間には、これが通じないのである。

だいたい、彼らクレーマーの言い分は次のように要約される。


「あなたは常識が欠けていますね、だから私は気分を害した。
私の常識で考えたら、あなたの行動や態度は間違えていますよ。」

「だから、私の常識に基づいて、直ちに改めてください。
なぜなら、あなたの常識は、私にとって非常識なんですから。」

「私は、あなたの非常識を指摘しているのだから、感謝して。」


そこには、社会通念や商習慣などは関係ないのである。
そして、謝罪や改善などはあまり意味がない。

そんなものは、クレーマーからしたら、儀礼的なものでしかない。

こちらが、彼らの意に沿う対応をしてくれるかどうかが問題なのだ。

さらに厄介なことに、「あなたの常識が正しかったです」という、

意を示さなければ、問題は最後まで拗れるのである。

彼らは、平気で人を非常識扱いするが、自分が非常識だとは
断じて思われたくないのである。

 

要は、子供なのである。

 

単に、自分が納得いかないことや、我慢できないことを
素直に言えないから「常識」という言葉で糊塗しているだけなのだ。

故に、そういった連中は、クレーマーと言われるのだ。

そして、このクレーマー体質の人間は、何も仕事上だけではなく、
普段の生活の中にも、普通に存在している。


私の友人で、連絡手段に絶対にLINEを使わない女性がいる。


その友人は、小学生の子供さんがいるのだが、子供が保育園の時に、
ママ友グループにLINEが原因で、かなり苦しめられた。

要は、既読後、返事をすぐに返さないという些細な理由だった。

この「すぐ」という時間的曖昧さが、ママ友にとっては
許し難いものだったのだろう。


時々、LINEの返事を返すのが遅いからという「くだらない理由」で
いじめが起こったというニュースを耳にするが、
まさに、この類だった。


「常識がない」から始まって、普段の行動や言動、
果ては家庭環境まで、悪口のオンパレードだった。

当時、私は友人から相談を受け、LINEを見せてもらったが、
まあ酷かった。

結局、最後の最後で、友人はママ友グループとは縁を切ったのだが、
そこに至るまでは、彼女なりに葛藤があった。

 

この葛藤も、「常識」が強く働いていたのである。

 

世間では、「人との縁は大切に」とか、「仲間」や「絆」とか、
比較的、かなりの割合で「良いことである」と思われている。

私も、そういった考え方や価値観を大切だと思っているし
否定はしない。

しかし、それは単に人生において、幸せになるための
一つの「要素」に過ぎないと思っている。

もっと言えば、「重要 要素」かもしれないが、
「絶対 要素」ではないと考えている。

だが、一般的には、そういった価値観や考え方とは真逆の行動や
考え方というのは、理由の如何に問わず、聞いた瞬間に
周囲から反射的に眉を顰められてしまうという部分もある。

 

「常識」という名前の、見えない圧力が、
自分が何か悪いことをしているように思わせるのだ。

 

例えば、周囲から
「何か、よく分からないけど、彼はサークルと縁切ったらしいよ」
と聞けば、理由を聞く前に反応してしまう。

「え!なんで?」とか。

「〇〇は、△△と友ヤメらしいよ」
「え!ウソ!」等々。

非常に曖昧な部分で、、縁を切るとか、孤独であるとかが、
良いとは思われない風潮がある。

普通に考えれば、自分にとって害でしかない人間関係や友人などは
即座に縁を切って関わらないようにしようと考えるはずだ。

 

それが、「常識」が絡んでくると、とたんに決心が鈍ってしまう。

 

本来、人と人との間で、円滑に物事を進めるはずの「常識」が、
却って、人を苦しめる元凶となる場合もある。

結局は、人から「非常識」だと文句を言われようが、
自分自身が、今までの「常識」を捨てない限り、
その「常識」が、どこまでも追いかけて、己を苦しめるのである。


そういう意味では、「常識」とは、恐るべき魔力をもつ言葉である。

 


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管理人 琴峰 一歩      プロフィール

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現在、アラフォーの年齢になった。

10代は、いじめや人間関係に悩み、
苦しみ続ける孤独な毎日だった。

20代では、不安定な経済力や仕事で苦労し、不安な毎日を過ごした。

30代に入り、無職も経験した。
本当に人生を変えたかった。

人生を変える為に、やりたい事、 挑戦したい事は沢山あった。

ただ、それに反比例して、
どうしようもなくお金が無かった。

だから、お金を使わずにできる事。

自分自身の考え方を変えた。

まず、悩み続けた不安定な経済力、雇用関係が変わった。

次に、苦手だった人付き合いが
嘘のように活発になった。

長い間、変わらなかった現実が
突然ガラリと変わった。

今は、新しい人生の夢に向かい、
挑んでいる。

そして、それは少しづつ実現中だ。

 

 

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