もっと他人に、自分自身が認められたいという強烈な思い。
人付き合いという人間関係における承認欲求とでもいうべきか。
人間関係の中で、常に同調圧力という無言の強制力で
疲弊し始めていた私の中に芽生えた、欲求というか願望だった。
この話は、ちょうど中学生の頃の話だ。
もし、自分の思い通りに他人と付き合う事が出来たら
どんなに良いだろうか…
もし、周囲がもっと私の意見や気持ちに寄り添って
尊重してくれたら、どんなに過ごしやすいだろうか。
もっと私という存在を、他人に認められたい…
この頃、そんな妄想のような事を考えながら毎日を過ごしていた。
だが、そんな思いとは裏腹に私の日々の現実は、
楽しさとはかけ離れた、ストレスに溢れた世界だった。
ただ苦痛で、つまらないと感じる人付き合いの中で
その他大勢の取り巻きの一人として、毎日を過ごす…
当時は、人付き合いが罰ゲームのように感じていた。
周囲に同調することが自分自身を蔑ろにしている気がしていた。
この頃から少しずつ、一人になりたいと思うようになっていった。
だが現実には、同調圧力で仲間から外れる事も許されず、さりとて
周囲の人間に対して、イニシアティブを握って自由に振舞えるほど
当時の私は、人付き合いのテクニックがある訳でも無かった。
毎日人に会うたび、楽しくも無いのに笑顔を振りまき、
相手の話を聞きながら一生懸命に相槌を打っている自分が
どうしようもなく嫌でたまらなかった。
そんな環境の中が、ただ楽しい毎日を送りたいという妄想だけが、
この頃の私に許された、自由に出来る唯一の逃げ場であった。
そして、今度はクラスでいじめを受けるようになると、
それまでの現実は一変した。
他人に認められるどころか、否定される存在になった。
まず初めに、無視や仲間外れといった仕打ちで、
否応なく周囲から人は離れていった。
次に周囲の誰かが、私に絡んでくる時は
大抵は悪口や暴力を振るって来る時だけになった。
今まで、クラスの中で私の存在感は希薄だったのに、
否定や嫌悪の対象としていじめられるようになると、
私をいじめるという一点で、周囲は団結しているように見えた。
つまり、周囲が結束する為の接着剤のような役割を、
私がいじめられることで担うという、本当に馬鹿げた話だった。
正しいか間違っているかは別にして、彼らには彼らなりの
私をいじめても良いという理由はあったのかもしれない。
だがいじめられる私の立場にしたら、たまったものでは無かった。
そもそも、人付き合いを円滑にしようと自我を殺して我慢した挙句、
今度は仲間外れになり、果てはイジメられるようになった。
何故、私の存在を否定したり嫌悪されなければならないのか、
どうしても理解することが出来なかった。
いじめの経験は、その後の人付き合いをする上で、
トラウマのように私の心に焼き付いてしまった。
そして、それまでは人付き合いは苦手だった感覚が、
人が怖い、他人と関わっても碌なことが無い…
そう感じるようになってしまった。
これ以降、私は人間関係というものに一層ネガティブな印象を
持つようになってしまった。
だがそれと同時に、他人に認められたいという思いは
より一層、心の中で強くなっていった。
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